資料室

戦争体験の証言集

今でも物が捨てられません
 
(荻窪在住Nさん・1939年生まれ・66歳)
   私は浅草橋で生まれました。戦争が激しくなって、物心つくかつかない頃、世田谷の用賀に疎開しました。
その頃の用賀は田舎だったのです。庭を畑にして、周囲に花を植えていたのを覚えています。
防空壕 も掘りましたが、役にも立たない代物でした。家が焼けた時に備えて、茶碗等を庭に埋めたりしていました。

たぶん東京大空襲の時だと思いますが、東の空が真っ赤になっているのを見ました。
その後、伯母の家があった栃木県の那須、芭蕉の歩いた道として有名な遊行柳 のあるところに縁故疎開しました。黒磯に陸軍の工場があったので、焼夷弾が降ってきて、畑にも家の軒下にも落とされました。

御殿山という裏の山に横穴式の防空壕が掘ってあって、周囲の人が皆、逃げていきました。私たちも逃げていきましたが、東京者だからと入れてもらえず、畑のトマトか何か の間に隠れたことを覚えています。焼夷弾がたくさん降ってきて、とてもこわかったです。
東京から一緒に疎開した伯母(父の姉)が、那須のもう一人の伯母にいじめられてよく泣いていました。那須の伯母は強い人であまり好きではなかったのですが、今ではいつも「遊びに来て」と言ってくれます。子どもの頃と全く違うおばさんになったなあと、戦争にな り食べるものもなく貧しいと、人の心は変わるとわかりました。物が豊かになると人間らしい心になるのです。

父は結核で兵隊には行かず、1945年8月17日に亡くなりました。今から考えると気の毒だったと思います。父は病気になって仕事はどうしていたのか、給料をもらっていたのかはわかりません。

戦後、伯母と一緒に帰京しました。配給がさつまいもばかりで、食べるものがなくて大変でした。母の苦労は並大抵ではなかったと思います。子どもに食べさせようと農家に買出しに行き、着物と引換えに、食料をもらってきました。用賀では畑も作っており、近所の魚屋さんに働きに行き、そのうち再婚しました。昭和24年、10歳違いで妹が生まれました。

1946年4月に小学校に入学しました。墨塗り教科書でしたが、墨を塗ったのは誰かわかりません。
何もないので父の背広からかばん、ぞうり袋、服を作って写真屋で写真を撮りました。かばんと靴は抽選で、抽選にはずれると何もなかったのです。 下駄履きの子もたくさんいました。入学式は校庭でした。明治一桁にできた古い小学校でした。二部授業で、青空教室でした。雨が降ると階段で授業をしていました。東条英機の家のすぐ近くで、東条の息子が 上級生でした。

東京では貧しくてもみんな助け合って、隣近所は仲良くしていました。母が働きに行っていた魚屋は弟の同級生の家でした。食べるもの、お金のみじめさはあったけれど、精神的な貧しさはなかったと思います。 那須では、9歳か10歳位の従兄が母親を助けるために、肥桶をかついで畑にまいていました。

戦争というと、貧しかったことしか思い浮かびません。あとは疎開中のみじめさ、いじめです。従兄は東大に入ったので、今、那須の家に花見に帰ると、いじめておいたくせに人が寄って来るので笑ってしまいます。戦争のこと、貧しい時代のことは幼心に覚えていて、今でも「戦争になったら・・・必要になるんだから」と物を捨てることができません。鉛筆一本でも最後まで使わなければ買ってもらえないので、サックして使い、つないで使い・・・ 洋服など、お下がりは当たり前でした。

戦争は人の心を悪くします。二度とやってはいけないと思います。でも、私のまわりには「つくる会」教科書を読んでも「懐かしいわね」などと言って、事の重大さを理解しない人がほとんどです。その人たちも戦争は二度とやってはいけないと思って いるのですが、戦争と「つくる会」教科書、戦争と国家の関係が理解できないのです。