資料室

戦争体験の証言集

疎開生活のこと
 
(久我山在住Kさん・1910(明治43)年生まれ・95歳)
  上の娘が女学校1年、下の娘が小学校5年の時に、私の実家のある愛知県豊橋に疎開しました。子どもたちは豊橋の学校に入りましたが、勉強はせず、動員されて毎日鉄砲の弾作りをしていました。そのうちここはもう危ないと言われ、もっと田舎の鳳来寺村というところに再疎開しました。鳳来寺村は山と川ばかりのさびしい村で、防空壕もありませんでした。山の上に神社が一つと、宿屋が1軒あり、その宿屋が懇意だったので、2階に一部屋借りて住みました。妹の家族もそこに来ました。陸軍病院の軍医もそこに泊まっていました。

下の子はかどや小学校に入りました。みんなわらじばきだったので、「東京の子は運動靴」と珍しがられました。わらじ作りを教わって、今でも思い出して作っています。上の子は村に女学校がなかったので、女子農学校に入りましたが、毎日鍬をかついで、1里も歩いて松根掘りに行き、体を壊してしまいました。

この村には食べ物を売る店がないので、自分が食べる分は自分で作るしかありませんでした。宿屋の地所を借りて、妹と一緒に慣れない百姓をやりました。肥料は人糞でした。お米のご飯はめったになく、豊橋の実家から持ってきてくれたカボチャや大豆を食べていました。隣村に豆腐屋があり、行列すれば買えると聞きましたが、子連れなので行ったことはありません。妹はビスケットを作る会社にいたので、氷砂糖を1箱持ってきていて、一握りを百姓にシイタケと交換してもらったり、本当に食べるものには苦労しました。農家の手伝いをしてぼたもちを出してくれましたが、普段食べつけないので子どもはおなかをこわしました。

着る物は持ってきたものを着て、あとは宿屋の倉庫に預けました。洗濯も洗濯機などなくて、前の川で洗濯するのですから、石けんなんてやってもいいかげんなものでした。着る物のシラミと頭のシラミの両方が移ってしまい、子どもが先に移って、大人に移り、おばあちゃんにまで移ってしまい、薬やなにかに苦労しました。子どもは東京に帰ってもシラミがいて、学校でいじめられたそうです。赤ちゃんのオムツも川で洗ってましたので、下流の方では水が汚れていたと思います。まあ、人がたくさんいないから、そんなではないかもしれませんが。

あと、当時はガスなどなくて、七輪で火をおこしたり、お風呂も焚き物だったので、妹と近くの山へ大八車を引いていき、落ちている木を拾ったり、木を切って集めて持って帰りました。これも重くて大変でした。炭は実家からもらってきました。冬はかなり寒かったけれど、暖房がないので、夜は早く寝ちゃってました。

終戦の時は、鳳来寺にいました。陸軍の看護婦が宿屋の将校さんのところに、「無条件降伏した」と知らせてきましたが、みんなで「そんなはずはない」「うそ」「うそ」と言いました。無条件降伏するわけがないと信じられませんでした。でもうちへ帰れるからよかったかもしれないと思いました。そのうち本当だとわかって、戦争がすんだら、この宿屋も商売をするから引きあげなくちゃとなり、しかし進駐軍が悪いことをするといううわさだったので、東京へは帰らず、豊橋に戻りました。

豊橋も空襲を受け、一晩で9割がた焼けてしまいました。親や妹は真っ暗闇の中、焼夷弾の落ちているうちはちりじりになって逃げ、落ちるのがやむと名まえを呼び合ってはひとところに集まったということです。実家も焼けてしまいました。近くに開発した新田があって、私たちはしばらくの間、そこにおいてもらい、12月に東京に帰りました。鳳来寺に1年ちょっと、豊橋に数ヶ月いたので、疎開していたのは合計で1年半くらいです。

主人は銀行に勤めて、東京にいました。1年半の間、自炊していました。雪ヶ谷に住んでいましたが、そのあたりにも爆弾が落ちて亡くなった人がいます。本所の店のあたりはみんな焼けて、たくさんの死体を焼いていたのを見たそうです。私は疎開していたので、そういうおそろしい目に合わずにすみました。

日本が戦争を始めた時は、相手がアメリカと知って、「だいじょうぶかしら」と思いました。戦争に勝つか負けるかは考えたことはないですね。ただ一生懸命、戦争の体制についていくのに必死でした。今から思えば、もう少し冷静に考えるべきでした。でも当時は誰一人反対する雰囲気もなく、とにかく戦争に協力するようにと思い込まされていました。指導者が悪いというより、みんなが思い込んでいました。無理強いでなく、自分たちでそうしなければと思い込んでいたのです。勝つか負けるかなんて結果のことを言う人はいませんでした。親のせい、学校のせいというより、普段からそうなるように育っていて、なんとなくそうなっちゃったという感じで、本当におそろしいものです。

内村鑑三は戦争に反対していました。あれは日露戦争ですが・・・。たまにそういう人がいてもみんなには通じませんでした。日本はロシアに勝ったので、安易な気持でいたのかもしれません。反対することを言えば、ひっぱられたかもしれません。私は意気地がないから何も言いませんでした。大きな会社でも銀行でも協力しなきゃいけないとなってしまい、そういう体制というものはおそろしいものです。

Q:靖国神社についてどう思いますか?

A:級戦犯のお骨を入れなければよかったのにね。あんなに言われるのなら早くやめたらと思っていましたけれど、外国の人の思っているようにするのも芳しくないと思います。政治のことはわかりませんが、男の人に聞いたら、外交的にはつっぱった方がよいと言っていました。一つこっちの欠点をみつけて、やっつけようと思ってやっているんでしょうね。でも日本は中国や韓国にひどいことをしているから、あまり大きなことは言えません。関東大震災の後から朝鮮人のことを忌み嫌っていました。シナ人のことを当時、中国は遅れているからと、「チャンチャン」と言っていたんですよ。日中戦争の前も満州事変からひどいことをしていたし、その人たちが伝えて、今でも恨んでいるのだろうかと思います。

Q:戦後の日本を振りかえって、日本人が失ったものは?

A:日本は豊かになりすぎたと思います。何につけても我慢することをしなくなりましたね。昔は暖房がなくて、寒くても文句を言わなかった。諦めていたのかもしれませんが。今は親を殺したり、自分の子どもを虐待したりしています。昔から悪いことをする人はいましたが、今とは違うと思います。自己主義になったのでしょうか。昔は親のことを思ったり、きょうだいのことを思ったりしたけど、今の人は違いますね。上から押さえつけられていたのがなくなって自己主義になったのでしょうか。

Q:正義のためなら再び戦争に参加することが必要と思われますか?

A:いくら正義のためでも戦争はいけません。私たちは戦争はもうこりごりだけれど、若い人たちが戦争のことを知らなくなっていくと心配です。戦争の悲惨さ、みじめさを伝えていかなければなりません。沖縄でもおばあさんたちが戦争体験を伝えていこうとしているそうです。